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NAGASAKI
長崎銘菓ちより&カステラぷりんセット
300セット
2021年4月10日〜9月30日
異国情緒あふれる街長崎で生まれた、創業明治17年と創業明治30年の老舗お菓子処の商品、長崎名物「よりより」と「カステラ」が「ちより」&「カステラぷりん」として、明治から飛び越えて令和の今、ナンコレ特別セットとしてお届け!
4,200円(税込)【送料込】※一部地域除く
異国情緒あふれる街、長崎で生まれた老舗菓子店の商品「ちより」と「長崎カステラぷりん」をセットにしました。明治創業から令和の今も続く2つの菓子店の味を長崎の風景を思い浮かべながらご堪能ください。
「ちより」
●よりよりの歴史・云われ
中国では麻花とよばれ、小麦粉の生地を捻り、油で揚げた駄菓子のようなものである。最初に日本に伝わったのは、古くは唐代の頃、遣唐使により日本に伝えられた素麺やうどんの祖とも云われる索餅(さくべい)がそれではないかという説もある。
長崎においては戦国時代末期頃より中国人が移住し、鎖国中でも中国との交易は続いており、その帰化人たちにより伝えられたのが始まりとされます。第二次大戦が終了するまでは一部人々でないと館内などの外国人居留地には行けず、菓子の商取引はその中だけで行われていました。戦後になって、一般の人たちも口にするようになり、その素朴な味と独特の食感が人気となりました。しかし、その商品名は中国名のままだったので「まーほぁ」というのも憶えにくく、それぞれに「よりより」「よれよれ」「ねじねじ」「ねじりんぼう」「南京巻き」「唐人巻」などと来る人によって呼び名が異なっていたのを、萬順三代目であった昭夫が「よりより」を総称としようとし、現在その呼び名は愛らしく皆に定着し親しまれています。●よりよりのこだわり
・何よりも鮮度が大切なので、あまり作り置きをせずに他社製品よりもあえて短く賞味期限を付けている。それにより、香ばしい香りと素材の旨味を引き立てる。
・小麦粉、砂糖を主原料とし油で揚げただけのシンプルなものなので、季節・温度・湿度によって生地の温度、水分量、粉の配合をその日に合った配合でしている。
・目指す硬さがあり、最初のひと噛み目は硬くても、その後は崩れる硬さを目指す。
・美味しいのは今の時代大前提になっているので、より美味しいと思えるものを作り続けるよう努力する。●ちよりについて
・「ちいさな」「よりより」で「ちより」です。
・はじめて「よりより」を食べる人は柔らかい物かと思い、1本丸ごと噛みつこうとする方がいて、前歯が危険にさらされると思い、一口大の大きさにしました。
・硬さは小さくてもそれなりに硬くしています(よりよりなんで)
・小さい子やお年寄りでも硬いと思った場合は口の中でシャブっとく事ができる程度の大きさにしました。
・長崎を全面に出したパッケージでもらって喜ばれるお土産として開発しました。「カステラぷりん」
創業明治30年の老舗和菓子店「まえだ」。長い歴史の中で守り抜かれた伝統の味を現代まで継承していく中で生まれた、長崎らしさ×新しい創造をテーマにおいしさの想像できる新感覚なカステラ商品が完成しました。カラメルソースを独自の製法でクラッシュ状にして「じゃりじゃり食感」を出すことに成功。ザラメ糖+カラメル=ザラメル。このザラメルを長崎カステラ独自のフレーバーを加えたやわらかプリンの上にかけることで、カステラ同様2つの異なる食感を生み出しました。5年連続モンドセレクション金賞受賞。また、長崎の新名物を決めるグルメコンテストでも最高の金賞に輝きました。今回はプレーンとプレミアムショコラをご用意。商品情報
■内容量
① 元祖よりより 5本
② ちより パッケージ2種類
③ 長崎カステラぷりん プレーン×4個
④ 長崎カステラぷりん プレミアムショコラ×2個
■保存方法:直射日光を避け、高温多湿を避けて保存してください
■賞味期限:
①②袋背面に記載(元祖よりより70日製造日含む)(ちより100日製造日含む)
③④製造日より常温120日■原材料名
①小麦粉(国内製造)、砂糖、植物油/かんすい(一部に小麦を含む)
②小麦粉(国内製造)、小麦でんぷん、砂糖、植物油/かんすい(一部に小麦を含む)
③【プリン】卵(長崎県産)、砂糖、脱脂粉乳、牛乳、クリーム、植物油脂、転化型液糖、ゼラチン/ゲル化剤(加工デンプン、増粘多糖類)、香料、カロテン色素、乳化剤、(一部に卵・乳成分・ゼラチン含む)【砂糖加工品(ザラメル)】砂糖
③【プリン】卵(長崎県産)、砂糖、チョコソース(砂糖、水飴、ココアパウダー、寒天)脱脂粉乳、牛乳、クリーム、チョコレート、植物油脂、転化型液糖、全粉乳、ゼラチン/ゲル化剤(加工デンプン、増粘多糖類)、香料、乳化剤、カラメル色素(一部に卵・乳成分・ゼラチン・大豆を含む)【砂糖加工品(ザラメル)】砂糖■アレルギー
①、②ともに小麦
③卵・乳成分・ゼラチン
④卵・乳成分・ゼラチン・大豆■お召し上がり方
③④冷蔵庫でよく冷やし、ザラメルをかけてお召し上がりください■販売者
①②有限会社萬順製菓 長崎県長崎市諏訪町7-28
お問い合わせ:095-824-0477
③④株式会社まえだ 長崎県大村市協和町732-9
お問い合わせ:0957-54-4321■注意事項
①②堅い菓子ですので、歯の弱い方は気をつけてお食べください。風味の変わらぬうちにお早めに召し上がりください。
③④フタやカップの縁で口や手を切らないようご注意ください。開封時、内容量が飛び散ることがございますのでご注意ください。開封後はすぐにお召し上がりください。プリン表面や裏面が気泡により凹み、離水する場合がありますが品質上問題ございません。■発送方法:
注文期間(4月10日〜9月30日)二週間ごとに順次発送
■送料
下記エリアは追加で送料がかかります。北海道 1300円 東北 500円 沖縄 500円
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旅のはじまり
YUKO:旅する通販サイト「ナンコレ九州」第三弾!私、長崎担当ナンコレーターのYUKOです!これから私の生まれた街、長崎の魅力をたくさん発信していきますね!お楽しみに。
YUKOプロフィール
●年齢:32歳 ●出身地:長崎県 ●略歴:心と体の病気を克服し、丸の内OL時代にわずか10ヶ月で美ボディの大会で日本一となり独立。パーソナルトレーナー・企業研修講師・フィットネスアプリや健康食品のアドバイザリー・アスリートモデル等として活躍。現在は長崎を拠点にオンラインパーソナルプログラムとオンラインコミュニティを展開。公式LINE(https://lifetailor-yuko.com/lp2/)では無料情報配信を行い全人類健康化計画を推進中。●趣味:トライアスロン・料理 ●特技:ボディメイク・ダイエット ●好きな食べ物:お寿司 ●好きな場所:稲佐山・海 ●今一番欲しいもの:健幸な仲間
YUKO:今回第3弾の商品は「カステラぷりん」。ん?カステラ?ぷりん??皆さんもご存知の長崎名物カステラ。それがプリンって、イメージがわかないw それと今回はセットで「ちより」という商品も。こちらも長崎県民なら誰もが食べた事がある、あの固さがクセになる「よりより」のニューバージョンだとか。早く食べてみたい!しか〜し、今日の天気は演出したかのような雨模様。。。ネットの検索で「長崎は」って入れると「今日も雨だった」と出るのなんとかならないのかしらw 今回も商品に出会う前に、温泉、神社、アクティビティなど現地の情報をお届けします。記事を読んでる皆さんと一緒に日帰り旅を満喫しましょう! 雨なんか吹っ飛ばせ!
と言う事で、今回のナンコレ旅のスケジュールを確認
福岡〜伊王島〜出島〜皿うどんランチ〜長崎さるく〜眼鏡橋
長崎市内中心部から車で約30分、一行は伊王島にある「i+Land nagasaki」へ
九州最大級??「全天候型スパテーマパーク」とは
YUKO:伊王島は、かつては炭鉱の島として栄えて、橋が繋がった現在は一大リゾートの島として盛り上がってます!そこに2020年9月にオープンした大型温泉・スパテーマパーク「Ark Land Spa」を今回初体験しにきました!楽しみ!
まずは露天風呂へ
YUKO:ここの展望露天風呂、海を目の前にしながらの温泉は最高!遠くを行き来してる船が、時間の流れをゆったり感じさせてくれて癒される〜。
YUKO:長崎の雨は演出だと考えれば、小雨の中で入る露天風呂もなんか風情があっていいかも。
次は10部屋もある家族風呂へ
YUKO:ナンコレ!家族風呂って言われて入ってみたら、なかなかラグジュアリーな雰囲気。しかもサウナまでついてるなんて!サウナ入って内風呂を水風呂にして露天風呂のテラスで休憩を3セット。整いますw 休日でも1980円で90分貸切とか、もうサウナーカップルにはちょーオススメ。
YUKO:しかも館内の網元食堂から注文してお料理を部屋で食べらるなんて完璧です。こんな家族風呂、見た事ない!
次は水着に着替えスパへ
YUKO:ナンコレ!長崎にこんな場所があるなんて!確かに九州最大級かも。ていうか、こんな雰囲気の場所、他に勝てるとこあるのかしら!
YUKO:中はアロマの匂いが漂い、森の中をイメージしたとってもリゾートな雰囲気。5種類のスパが楽しめて心も体も癒されます。
YUKO:今日は小雨が降ってるけど、晴れた日のテラスは気持ちいいんだろうなぁ。でもこんな天気でも気持ちいい!
室内着を借りて岩盤TERRACEへ
YUKO:ちょっとちょっと何この空間、1万冊の漫画本がこんな場所に置いてあったら時間があっという間に過ぎちゃうじゃない!
YUKO:岩盤浴のオブジェも凝ってる。もう最初からやられっぱなしです。でももう次の目的地に行く時間。次回は1日中ここに過ごしにやって来ようっと。
後ろ髪を引かれつつ、一行は出島へ
江戸時代にタイムスリップ
YUKO:ここ出島は1636年から幕末の修好通商条約が結ばれるまでの218年間、日本が鎖国中に唯一西洋との繋がりを持っていた場所。駆け足でご紹介。
YUKO:ここもゆっくり見たい長崎を代表する場所の一つ。今、復興整備事業を行ってて2050年には水に囲まれた扇型の輪郭を完全復元する予定だとか。昔の形に変わって行く出島を定点観測しなきゃね。皿うどん太麺細麺戦争勃発!
ランチで訪れたのは出島から歩いてすぐの永楽苑。こちらの人気はしいたけ肉そばなのですが、あえて皿うどんを。
YUKO:私、絶対的に皿うどんは太麺派なんです。お酢をたっぷりかけて食べる太麺の皿うどんは最高です!
スタッフ:俺は細麺バリバリ派だな。この後お会いするザ・長崎人の方々にも聞いてみようよ。
YUKO:太麺っていうに決まってる!
皆さんはどっち派?果たしてどちらに軍配があがるのか、乞うご期待!
長崎の魅力を感じるには「さるく」に限る
YUKO:今日一番楽しみにしてた「長崎さるく」。今回、長崎ロケをコーディネートして頂いた梅元さんと語りべの桐野さんと一緒にさるくします! 約1時間のお散歩w お二方、よろしくお願い致します!
今回のプロデュースをして頂いた梅元さん
梅元建治さんプロフィール
1967年 長崎市生まれ。長崎大学工学部卒業後、九州芸術工科大学環境設計学科岡研究室を経て、福岡市の建築設計事務所に勤務。父の死去に伴い2000年~家業の水産加工業を営みながら地域活動を行う。財団法人ながさき地域政策研究所登録研究員、長崎県行財政改革懇話会委員(県総務部)、県立大学長崎シーボルト校非常勤講師、ローカルT.V.コメンテーター等を経て2010年から一般社団法人ナガサキベイデザインセンター代表理事。現在、長崎市議会議員、長崎県景観形成(地域振興)アドバイザー、長崎居留地まつり実行委員会事務局長、NPO法人長崎コンプラドール理事、長崎近代化遺産研究会理事、長崎市ブランド振興会企画部会長、長崎市立梅香崎中学校PTA会長などを務める。 Facebook:https://www.facebook.com/kennji.umemoto
今回の語りべ、長崎コンプラドールの桐野さん
桐野さん:1858年、まずはアメリカ、フランス、ロシア、オランダ、イギリス、この5つの国と条約が結ばれたんですね。これは修好通商条約、学校で勉強したかな?仲良く交易しましょと。でも先進国からすると日本はかなり遅れてるので、不平等な条約とも言われてますが、とにかく交易が始まった。幕府はとりあえず長崎と横浜と函館だけを開港しました。
YUKO:どこの港も雰囲気が似てますね。
桐野さん:当時の外国人たちは日本に行きたくても行けなかったので、だいたい上海辺りにいました。さあ、日本が開国した!一番近い日本は長崎。そうすると夢を持った多くの外国人たちがどんどん長崎にやって来ました。日本に行ったら何かいい事があるかもしれないと。
YUKO:ジパング!
桐野さん:そう、まさに夢を持ってジャパンドリームを掴むために。その代表的な人がグラバーさんですが、それに限らず20代の若者たちがどんどん長崎にやって来ました。当然、長崎の街で仕事をするんだから住む事になったわけですね。
YUKO:メモってもいいですかw
桐野さん:彼らはどうしたのかというと、自分たちのスタイルで街を作った。仕事をすれば会社もできるし、当然のように生活する家を建てんといかんし、食べなきゃいけないし。今日、朝から出島に行かれたそうですが、出島は江戸時代の中でも唯一オランダ商館がおかれて外国との交易の場所にはなってはいたんですけど、日本で考えれば鎖国なので、それは長崎でも同じ。そんな中で、外国の人たちが「俺は稲佐山に住むぞ」とか、「俺は街中に住む」とか好き勝手やられたら困るので、場所を決めたんですね。こっからこの範囲で暮らしてね、この範囲でよかね、守ってねって。その範囲が今から歩く長崎外国人居留地というところになります。
桐野さん:その中に彼らはルールに習って自分たちの暮らしをはじめ街を作って行った。そうするとどうなったのかというと、彼らは彼らのスタイルで街を作ったので、その名残が長崎のまさに観光の代名詞になる異国情緒のあるエキゾチックな街になったわけですね。今日みたいな雨が降ったら、当時はまだアスファルトの道はないので綺麗な道作ろうと石を切り出して埋めて作った、それがオランダ坂ですね。当然、まだキリスト教は禁止されてるんだけど、居留地の中は外国ですから、外国人のために作った協会が世界遺産の大浦天主堂ですね。
YUKO:私の母と父が一番最後に大浦天主堂で結婚式あげたんです。
桐野さん:あら〜!
YUKO:一番最後の1組として新聞に載ったんです。最後のカップルです。
桐野さん:すごいね!
桐野さん:グラバーさんは、ひと儲けふた儲けした大変成功された方なので、俺は海が見える丘の上に家を作ろうかなと思って作った家が世界遺産グラバー邸になるという。とにかく多くの外国人がやって来て、この街の暮らしもそうですけど建物も風景もそうだし、学校作ったりもしてるし、とにかく多くの外国人がこの街で活躍したんですね。
桐野さん:今日はほんの少しですけども、その名残があちらこちらに残っているのでご一緒したいなと思います。
桐野さん:いきなりですが、私たちは今、グラバーヒルというホテルにいますけども、実はですね、このホテルはすでに江戸時代からホテルだったんです。まさにこの場所。
スタッフ:目の前が海だったんですか?
YUKO:かっこいい!
桐野さん:ベルビュー・ホテルといって1863年にスタートしてます。幕末の5年前よ!グラバーさんがグラバー邸を作った時。まだ大浦天主堂(1864年)ができる前。この写真は明治の中期ぐらいの写真だと思いますけど、それにしてもですね、同じ場所に今もホテルが建ってるわけですよ。要するに多くの外国人がやって来て、仕事目的の人もいるけど、もうすでに観光客もいたんですよ、長崎遊びいこかぁ〜て。
桐野さん:ということで、そんな思いを持ちながら歩いて行きたいと思います。
梅元さん:雨も止んできて、いい感じ。
スタッフ:ちなみにお二人は皿うどんは太麺派?細麺派?
梅元さん桐野さん:細麺(二人ともw)
YUKO:撃沈。。。
ひとまず太麺勝利w さるくは続きます。。。
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あのタモさんもやって来たこんもりとは
桐野さん:ちょうど今、私たちはこの辺りに立ってるのかなぁ、感じからするとですねぇ。目の前は大浦川という川が流れてました。よく見たらわかるように、ちょうど今、弁天橋の際のところに私たちいるんだけれども、一階はね、ワインとか書いてあるからバーよ、小さな居酒屋さんや食堂やホテルなど、ズラ〜っと並んでました。当時の外国の人の歓楽街ですね、今はな〜んも面影がないですけどねw
桐野さん:いつもこの街を案内する時につい一年、二年前までは、ここに明治の中期に建てられた煉瓦造りの倉庫があったんですね、3階建の。その雰囲気がかすかにあったの、蔦に絡まって残ってたんで。実際には利用されないで放置されたような建物だったんですけれども。当時はリンガーさんがお茶の倉庫として使われてたりとか、肉屋さんがやられてたりとかですね、アメリカからやって来たジョージ・レイクという人が造った建物が残ってたんです。ところが梅元さんも私たちも知らない間に駐車場に変わってて、僕もガイドでいっぱいお話ししてたのにね、残念。
スタッフ:まだ蔦は少し残ってますね。
梅元さん:レイク商会の蔦としてお土産になるかもw
一行は、石橋駅へ。ここが噂の。。。
桐野さん:実はですね、不自然にこんもりしたアスファルトの道の下に、明治19年に建てられた石の橋があるんです。まるで眼鏡橋みたいな綺麗な橋が。
YUKO:あ、ブラタモリで言いよった、フフフ♡
桐野さん:そう、タモリさんのブラタモリで紹介されました。実は僕がディレクターさんを案内したんです。タモリさんは地形が好きやって。多分こういうネタは好きなんじゃないですかって。
梅元さん:僕たちはいつも年に一、二回ですね、川の底を掃除するんですね。
スタッフ:中は入っていけるんですか?
桐野さん:はい、この下は暗渠になってて割と綺麗なんですよ。潜っていけば綺麗な橋が見れます。東山手と南山手を結ぶ橋で、江戸時代は木の橋だったんです。それを明治時代に、個人が寄付をして造った橋なんです。まぁ当時のキリシタンですよね。
梅元さん:ちょうど派手な電車が来ましたw
一行は次なる目的地へ
見下ろす景色の中に長崎の歴史が詰まってた
YUKO:ナンコレ!歴史の街になんとも未来的なw
桐野さん:こちらはグラバースカイロード。平成14年にこの斜めに動くエレベーターができて、翌年に垂直エレベーターが出来て、グラバー園に直結して行くんですね。新しい観光ルートではあるんですけども、地元に住む人たちにとっては便利な生活道路ということになります。朝6時から夜の11時半まで、先ほどの路面電車の始発と終電に合わせてるんです。
梅元さん:元気な方はお隣の階段でw
エレベーターを降りて、見晴らしのいいテラスへ
桐野さん:明治に入ってからですけども、多くの宣教師たちが長崎にやって来たんですね。キリスト教の禁止が解かれるのが、ちょうど明治6年、1873年なんですけども、それ以降は特にたくさんの宣教師がやって来て、彼らが布教活動をやって行くんです。でもそんな中で彼らが思ったのは、日本にとって長崎にとって大事かとは勉強すっことじゃなかとね、という風に思い始めた時に学校を作ったんですね。しかも彼らは日本の国にお金出して作んなさいというんではなくて、自分たちが資金を調達して作ったんですね。キリスト教本部にお願いしたりとか、そういう形で学校を作ったんですね。それが今、明治時代には6校、今は活水と海星だけが残ってます。活水は1879年明治12年、海星はその10年後ぐらい、100数十年の歴史を持つ有名な学校です。
スタッフ:海星ってあのプロ野球選手のサッシーの出身校?
梅元さん:そうです、かなり古いですけどもw
桐野さん:東山手は学園の丘といわれていたんですね。ちょうど真ん中にある黄色い屋根が、中国の孔子様を祀った孔子廟ですね。それと今マンションばっかりになってますけども、あの辺りもほとんど居留地だったんです。わかりやすく言うとですね、居留地っていうのは1859年に条約が結ばれてから、1899年まで40年間、明治32年までは、そこの中には日本人が住むことはできんかった、そこは外国だったわけですね。
桐野さん:ただ居留地の良かったのは、今日、朝から行かれた出島のように人工の島を作って外国の方を囲ったり、あるいは唐人屋敷で斜面地を開発していって中国人のためのニュータウンを作ったわけではなくて、ある場所を指定して、その中は外国人だけねっていう約束だった。みんなそのルールを守って、40年間は最初は5カ国ですけれども、次々といろんな国と条約が結ばれていって最終的には22~23カ国ぐらいの人たちが、同じエリアに住むわけですよ。考えて見ればですよ、文化も風習も言葉も違うけん、でもあんまりトラブルてないとよ。けっこうですね、お互いのことを尊重しながら、暮らしていたみたいですね。異国の地で生活をするということですから。まぁ、そういうところは良くできてるなぁと。
スタッフ:それが明治30年代ぐらいからだんだん変わってきたのは、住む方がいなくなってきて?
桐野さん:明治32年になって、とりあえず居留地の制度が廃止になったんです。それからは外に住んでいた、塀や堀で囲んでいたわけではなくてポイント指定をしていただけですから、石柱なんかを置いてですね。だから今度は日本の人たちが、俺たち中に入ってなんか商売しようかなとか、外国の人も外に出て行く。でもほとんどはそのエリアの中で暮らしてたみたいですね。その明治のある時期は完全にこの周辺は外国の人たちだけ、そりゃフランス語も、イタリア語も英語もロシア語もオランダ語も、もう無茶苦茶ですよねw それで共存して行くわけでしょ、同じエリアの中で。そう考えたらすごかぁと。
スタッフ:確かに、最先端!
YUKO:あの辺りは中国人の方たちが?
桐野さん:そりゃなんちゅったって中国人は多いですもん、ちょうど居留地が始まるときに唐人屋敷という中国人たちの町の制度がなくなるんですね。ですから唐人屋敷に住んでた人たちも当然外国人ですから、居留地の中に引っ越してくるわけです。そして居留地の中で暮らして行くうちに、何かやろうと自分たちでお金を出し合って中国から資材を取り寄せて作ったのが孔子廟。明治26年のことなんです。あんな風に豪華絢爛になったのは、ここ二、三十年の話ですけども。ランタンフェスティバル、今回はコロナで中止が決定しましたが、孔子廟は飛び抜けて綺麗です。
YUKO:来年は絶対行きます!
桐野さん:昨年まではクルーズ船がバンバン入ってきて、ここには毎日大きな船が泊まっていたんです。しかし残念ながら今年一年ほとんどその姿を見ることがなくて、そういう大変な一年だったんですけども、みんな元気に過ごせて良かったなと。
桐野さん:ちょうど、目の前の稲佐山が333メーターの高さで、世界の新三大夜景に指定されて、夜景のメッカとして有名ですけれども、長崎の全域的な夜景が眺められます。
YUKO:稲佐山大好きです!
桐野さん:僕らはですね、地元ではこの上、鍋冠山というのがありまして、この上からの夜景はまた稲佐山と違ってものすごい近い夜景が眺められて、とっても人気があります。今は展望所も整備されてたくさんのお客さんがくるようになりました。
鍋冠山の夜景
桐野さん:ちょうど今私たちが70メーターぐらいの高さにいます。さっきの斜行エレベーターで上がったところが50メーターぐらい。もうすぐそこはグラバー園の一番頂上ということになります。第二ゲートですね。
YUKO:あ〜ほんとだ、こっちから来た事なかった。
桐野さん:こっちからの方が、楽だし楽しいですよ、あとは降りて行くばっかりだからw ここのテラスからの眺めも街が一望できて非常にいいですよね。
梅元さん:昔の長崎の写真を見ると、本当に港がもっと深いですよね、広くて。
一行は南山手レストハウスへ
建物あるところに物語あり。語りべの言葉に魂が宿る
桐野さん:グラバーさんが長崎に来たのは1859年、21歳の時。4年間で金儲けしてあの世界遺産グラバー邸を作ったんですけども、実はこの建物も1864年にグラバーさんが作ったものなんです。グラバーさんと言えば、幕末の志士たちを陰で支援したりとか実際それもあったと思うんですけど、彼が一番一生懸命やった仕事というのは炭鉱の開発だったんです。当時、江戸時代は良質な石炭が取れたんですが、まだまだ日本はエネルギーとして使うところまでは行ってなくて、宝の持ち腐れ的な状況だったんです。当時の長崎は佐賀藩の管轄だったので、グラバーさんは話を持ちかけ開発を始めました。グラバーさんも新しい技術や機械や監督官を導入して、これが世界に向けてめちゃくちゃに売れて成功していったんですね。この建物は、当時グラバーさんが呼び寄せた監督官や技術者たちの社宅として使っていたんです。いろんな方が住んだと思うのですが、誰かドラマチックな人はおらんかなぁとw いたんですねぇ〜。
桐野さん:時は1878年、明治11年の頃、スコットランドの若者が故郷の先輩のグラバーさんを頼ってやって来るんですね、長崎で大成功しとるぞと。当時24歳のジョン・メルドラム・ストラートという炭鉱技師の若者です。きっと手紙でも書いたのでしょう、グラバーさんも、こんねこんねとw 長崎に着くとすぐにグラバーさんを介して三菱にお世話になって。優秀な技師さんだったんですね、次々と炭鉱を手がけて行くんですね。そしてどの炭鉱もストラートの活躍によって大成功。記録として残されているのですが、当時の三菱の一般職員のお給料が20円、30円って言われてた時代、ストラート一人で噂によれば600円、いまのお金にしたら年俸1億円!本当にグラバーさんを頼って長崎に来て夢を掴んだんですね。
桐野さん:長崎に9年間ぐらい滞在した後に、一旦スコットランドに帰るんですね。親孝行のために。すぐに長崎に帰ってくるつもりだったんですよ。ところが予定外なことがおきまして。彼は独身だったのですが、故郷で美しいグッドさんという女性に出会ってしまったんですね。長崎に帰らんばいかんと葛藤するも恋心が募って彼女に告白し、二人は結婚しました。新婚生活がスコットランドで始まって行くんですけど、時間の経過とともにいまの生活は幸せなんだけども長崎に帰りたくて仕方なくなって行った。長崎の友人たち、食べ物、景色、仕事、もうI LOVE 長崎なんですよw なかなか奥さんに切り出せなかったんですが、数ヶ月経ったある日の夜、君を連れて長崎に帰りたいと思いの丈を語って、長崎に一緒に来ることになったんです。そして幸せな新婚生活を送ったのが、ここ27番館なんです。
YUKO:ロマンチック〜。
桐野さん:でもやっぱり人生ってね、良いことばかりでは続かんとよね。2年くらいはここで地元の人たちとの交流を深めながら楽しくやってたんですけども、時は1892年の冬、相変わらず炭鉱の仕事をやっていたのですが、上海に出張することになったんです。1月の寒い日だったんですけど、この家を出る時からゴホンゴホンやってたんです。多分、風邪を引いてたんだろうけど、気をつけて行って来てねと奥さんに見送られて1週間ぐらい出張に行くことになりました。なんとか仕事も片付け、長崎にはよ帰らんば!と船に乗ったのですが、当時、長崎と上海は船で一昼夜、帰りの船中で容態が悪化して長崎に着いた時にはもう虫の息、危篤状態やったとですね。慌てて友人たちが迎えに行って、寒風の中ここへ連れて帰って来ました。奥さんのグッドさんと友人の医者アーノルドが待っていて、もう寝ずの看病です。一生懸命看病したんですが、残念ながら長崎に帰って来た次の日の午後に、奥さんに看取られながら38歳の若さで肺炎で亡くなったんです。
桐野さん:グラバーさん、リンガーさん、オルトさんが有名なんで、居留地のスターとして取り上げられることが多いんですけど、ストラートはあまり表には出て来ませんが、この人がいたから石炭産業が一気に花開いた、その若者がここ27番館で亡くなり、彼は長崎を愛していたのでお墓は長崎にあって、今でもこの街に眠っています。
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桐野さん:建物があればそこには誰かが住んでて物語がある、そんなお話でした。
YUKO:桐野さんのお話は、まるでそこに居たかのような語りで、引き込まれます!
桐野さん:以前、宮古島の方々をこちらにご案内した時、今回のお話をしていたら、その中にいたユタさん(霊能力者)の方が、「あんたの話、聞いてるさ、笑ってるさ」って突然言われてw 「え!ストラートここに来とうと!」ってビックリして。
YUKO:それは桐野さんが、100年以上の時を越えて語り継いでくれてるんだから、ストラートさんも嬉しいですよね、聞きに来たくなりますよ!今もいるのかな?
桐野さん:これから歩く祈念坂もいっぱい歩いとう人がおるってw ではそちらへ行きましょう!
スタッフ:ソーシャルディスタンス出来ないですねw
この後も、素敵な会話が続いたのですが、続きはナンコレのSNSで発信しますね。お楽しみに。
続いて祈念坂へ
スタッフ:まっすぐな坂道ではなくてほんのり曲がってるのが良いですよね。タモリさんとか大好物じゃないw
桐野さん:居留地の中には、このような地番を表す石柱がいっぱいあります。この坂道は当時の坂道そのまま残ってます。階段の幅が狭かったり高さもまちまちなんで、雨上がりですし、足元気を付けながら歩いてくださいね。
そして、祈りの三角ゾーンへ
桐野さん:今、居留地では大変人気のある場所です。さるくでもとてもブレークした場所なんですけども、見てお分かりのように、あそこに大浦天主堂があり、そして目の前は妙行寺というお寺があって、正面は大浦諏訪神社という、お寺と神社と教会が共存する場所ということです。教会ができたのは幕末の1864年、お寺さんは1658年、そして神社は1693年、願い事はどっかが聞いてくれるばい!とw パワースポットとして人気になってます。
一行は最終地、大浦天主堂へ
ここは人の思いが詰まった世界遺産である
桐野さん:外国人のための教会と言いながら天主堂ですからね。
YUKO:確かに日本語w
桐野さん:厳しい弾圧もあって、キリスト教は二百数十年に渡って禁止してるけれども、ひょっとしたら誰かおるかもしれんねという思いが、この天主堂という三文字に表したかったんでしょうねぇ、それで奇跡が起きるわけなんですけども。
桐野さん:1865年3月17日に神父がいつものように祭壇に向かって祈りを捧げていたら、ちょうどこの入り口の扉のところに十数名の男女が立ってるわけですよ。そしてなんなんだろうと神父が振り返った時に、1人の女性、すぎもとゆりさんという方なんですけども、神父に向かって「マリア様はどこ?」って聞くわけですよね。
YUKO:私の御心はマリア様と共に
桐野さん:そうですね、私たちの心はあなたと同じだ、私たちはキリシタンだということを告げに来たわけですね、本当に奇跡の瞬間ですよね。元々、浦上村には江戸時代に入る前からたくさんのキリシタンがいたんですね。でもキリスト教が禁止されてた時は、いわゆる潜伏キリシタンとして、厳しい弾圧に耐えながら、代々、指導者がいない中、口伝えでずっとキリスト教を守り抜いて来たわけなんですね。7世代たったらパードルがマリヤ様を持ってやってくるという言い伝えが、子から孫へ孫からひ孫へ言い伝えられて来た、200年たったら歌の歌えるばいと。だから十数名の男女がやって来た時に、パードレに向かってマリア様はどこ?って聞いたんです。そして本当にマリア様を神父は持って来てたんです。そのマリア像が、教会の祭壇正面の右側に今も飾られています。
桐野さん:そういうふうにして、信徒が発見された教会として大浦天主堂はたいへん有名な場所なんですね。と同時に、この協会は実際はですね、長崎の大工さんが作ってるんです。メイドインナガサキです。その話をして今日は終わりたいと思います。
桐野さん:実際にこの協会を作ったのは大工の棟梁として大変有名な方なのですが、居留地の石畳やグラバー邸やリンガー邸やオルト邸などを手がけた、小山秀之進という天草の大工の棟梁なんです。その方が長崎の腕利きの有名な大工さんを集めて作ったのが、この大浦天主堂なんです。この小山秀之進の5代目の子孫の方は今、ものすごい有名な方なんですが。。。
スタッフ:小山、小山??誰だろ?
桐野さん:小山薫堂さんです。
YUKO:ナンコレ〜!!すごい発見!そうですよね、熊本ご出身。クリエイティブな血は引き継がれていくんですね!
桐野さん:その後ですね、1864年の12月に完成して、献堂式は翌年2月の19日に行われ、その後、勇気を持ってやって来た十数名の男女の後に、続々とこの坂道を信者たちがやってくるわけですよね。そうすると居留地のギリギリの境にある妙行寺に長崎奉行のお役人さんがいっぱいおったわけ。フランス寺とか言われてる寺ができたげな、次々と人の来よっけど、あら物見遊山じゃなかとじゃなかとね、って言うてみんなで見張っとるわけですよ。そして、あんたなんしに来たとねって話になれば、みんなキリシタンだったわけですよね。一応キリスト教はまだ禁止されとる時代やったから次々と捕らえられて、改宗しなさいと。そういうことが段々とひどくなって来て、ついには浦上四番崩れといって1868年には、一気に三千数百名ものキリシタンが捕らえられて、いろんなところに流されて行って、六百数十名の方が亡くなった。そういう悲しい事件に発展していくわけですが、その元になったのは実はここに教会ができたから。みんなここに来たわけですよね。来んやったらわからんかったのに来たわけよ。それがきっかけになったんですね。この教会を作った溝口市蔵さんも浦上からやって来たキリシタンだったんです。教会が完成した後に、キリシタンであるということがわかって彼も捕らえられたんです。
桐野さん:家族3人で当時一番厳しい津和野に流され、奥さんと子供はすぐに亡くなったんですが、彼はどんなに責められてもキリスト教を捨てずに生き抜いたんです。そして明治6年、キリスト教の禁止が解かれる時を迎えます。どうやってかはわからないが市蔵さんは長崎に帰って来てました。それからキリスト教の禁止が解かれて6年の歳月が流れました。プティジャン神父は今の教会の形に改修工事をすることになったんです。その時に神父は長崎に帰って来てた市蔵さんを探し出して呼んだんです。あんた最初に教会ば作ってくれたやろ、また手伝ってって、新しい教会ば造るけん、キリスト教が自由になって今までの教会は狭いけん、おっきい教会ば造るからと。そして市蔵さんは再び南山手に帰って来たわけですよ。そして彼が中心になって造ったのが、今、目の前にあるこの教会。しかも彼の彫刻の腕前は衰えていなかった。最初は信者たちを迎える入り口の扉を作りました。そして次に、私たちが今目にする祭壇を作ったんです。そしてその横にはプティジャン神父が持って来たマリア像が飾られています。そして教会が新しくなった4年後にプティジャン神父は大浦天主堂で病気でお亡くなりになります。そして今でも市蔵さんが造った祭壇の地下に棺がおかれ、ここで眠っています。
桐野さん:世界にはすごい教会が山ほどあるでしょうけど、人々の思いが詰まった教会として2018年に世界遺産に登録されました。当時の登録は宗教を守ってきた、キリスト教を守ってきたエリア、集落が世界遺産だったんだけど、大浦天主堂は建物としての世界遺産となったんですね。ぜひ今度は教会の中に入られて、市蔵さんの祭壇や入り口の扉やマリア像をその目でご覧になってください。今回のさるくは、この教会の話で締めくくらせて頂きたいと思います。
YUKO:ありがとうございました!桐野さんと一緒に歩く長崎の街は、地元の私でさえ感動します!一度こられた方も、今度は桐野さんと一緒にさるくしに来て下さい。きっと今回の感動を共有できると思います!本当にありがとうございました!
story3に続く
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STORY 01
第3弾!The Third Trip NAGASAKI 明治から続く老舗の逸品を求め異国情緒あふれる街、長崎へ
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STORY 02
長崎さるく、それは時を越えて物語を今に繋ぐ伝道師
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STORY 03
明治から令和へ、老舗菓子店が挑戦する、新長崎名物作り
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STORY 03
明治から令和へ、老舗菓子店が挑戦する、新長崎名物作り
カステラ?プリン?長崎新名物!
さるくを終えた一行は、お土産やさんが並ぶ通りへ
YUKO:カステラ屋さんがたくさん並んでますね。さすが長崎。普段はものすごい観光客で溢れてます。ん?あの看板?
YUKO:ナンコレ!これがカステラぷりんだ!店の中に置いてあるので見てみよう。
YUKO:これだ!ヒゲの生えた可愛いキャクターw
背後から怪しい男が。。。
山下さん:いらしゃいませ、食べてみませんか?
山下祐之介さんプロフィール
1975年8月31日 崎生まれ 日本大学文理学部卒業後、長崎に戻りお土産販売、企画運営に携わる。平成21年 株式会社まえだ 専務取締役就任・長崎南山手地区推進協議会 会長・独立経営振興会 会長・長崎城山小学校PTA副会長・長崎城山小学校おやじの会 会長
YUKO:ではお言葉に甘えさせていただきます、実食!
YUKO:あら?新食感。上にのったザラメ?とカステラ風味のプリンとの相性が抜群!
山下さん:お褒めいただきありがとうございます!店内には他にも商品ございますのでご覧になってください。
YUKO:このパッケージのイラスト可愛い!これがちより?
山下さん:お目が高い。それを作ってる男に今から一緒に会いに行きましょう。
一行は、眼鏡橋へ
井上さん:いらっしゃい!萬順めがね橋店へようこそ!
YUKO:それでは、お二人揃いましたところで、それぞれのストーリーをお聞きしたいと思います。まずは、山下さんからお願いいたします。ご出身は?
山下さん:長崎生まれの長崎育ちです。
YUKO:どのようにして今の道に進まれたのですか?
山下さん:さっき寄られた南山手の店舗自体は両親が元々やってて。
YUKO:学校卒業してご両親のお店を手伝ってたんですか?
山下さん:いえ、卒業後は経理畑とか、税理士事務所とか、いろいろな会社の経理とかをやっていたんですが、その時に親が倒れて。それで事業として僕も入って続けようかなと。親の経理はタッチしてなかったんですけど、開いたときに全てわかるので、ある程度やれるかなと。
YUKO:そうなんですね。和菓子屋さんの「まえだ」があって。その卸で販売されてた山下さんのお店があって。
山下さん:「まえだ」というところは明治から続くとこなのですが、三代目まではいたんですけど、四代目がいなかったんですね。そこで外から来られた方が4代目として社長になられて。その方とうちが取引してたんですね。僕と四代目は同級生で。「まえだ」は元々、大村なので長崎市内での販売網も欲しいし、僕は僕で色々勉強したいし。そこでうちと合併したというのが、今から十二、三年前。その時はまだ「カステラぷりん」もないし、カステラがちょこっとあったぐらいですね。パイ巻カステラはありましたね。あの南山手のお店は観光通りで年間200万人とか通るとこなので凄かったんですけど、もっとヒット商品を作らんばと思って。とはいえ、あそこはカステラの激戦区じゃないですか。
YUKO:めちゃめちゃ店舗多いですよね。
山下さん:そうなんですよ。カステラの有名どころが全部あるので、じゃあうちがカステラで勝負するかといったら、なかなか難しくて。カステラって日持ちが短くて、卸しても帰ってくるし。そういうジレンマも感じてたんです。じゃあ新感覚のカステラを作ろうとなって、観光地で売る商品として考えたのが、あの「カステラぷりん」なんです。
山下さん:そこでプリンをどうやってカステラにするかを考えました。県外とかの催事で皆さんが口を揃えていうのがザラメ。「あんたんとこはザラメついとうと? カステラの下についてるザラメが私好きなんで、そもそもついとらんような、もしくは溶けてるカステラはいらん!」って言われてw 季節にもよるんですが、特に夏場だと溶けやすいんです。時間が経っても絶対とけるし、ザラメの大きさにもよりますが。
YUKO:カステラの代名詞みたいなものですもんね。
山下さん:そこで逆手にとって、カステラ風味のプリンの上に、ザラメを自分でかけることで、食べる人の思いと味を乗っけて、美味しさを演出したのがあの商品なんです。
YUKO:最初発売された時のお客さんの反応とかどうだったんですか?
山下さん:味は自信あったんですが、一番難しかったのはカステラ感をどう出すか。プリンは風味は出せてもそれはプリンなので、「ザラメ」というその一点で押し切りましたw ザラメとプリンでいうカラメルを合わせて、「ザラメル」という造語を作って。
YUKO:カラメルでもなくザラメでもなくザラメルw
山下さん:方程式は、カラメル+ザラメ=ザラメル、イコールで結ばれてます!
YUKO:発信されてる感じですね、トレンドを!
山下さん:はい、いち早く、誰よりも早くw
YUKO:結構思い入れがあるということですよね。
山下さん:そうですね、会社自体もこのままでいいのか路頭に迷ってたときにあの商品ができて。観光地から気持ちを届けるために、プリンだけど常温で6ヶ月持つものができたので、いろんなところに卸しても返品がなくなりました。また色々とメディアにも扱ってもらって、「まえだ」は知らんけど、あのキャラクターは見たことあるとか認知されてきました。
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YUKO:あのデザインはどうやって?
山下さん:基本的に箱は外注してるんですけど、自分の中でなかなかいいなと思えるものがなくて。キャラクターでプリンにヒゲみたいなのが良いなと。そしたらあのキャラクターを作ってきてくれて、アレになりました。
YUKO:ヒゲはどこからきたんですか?
山下さん:ぷるんとしたヒゲは、パティシエ的な、ムッシュ的な。
スタッフ:オランダ人ではなく??
山下さん:ま、オランダ人でも良いんですけどw、可愛らしいというのを大前提として、カステラぷりんちゃんとして、かつやく、、、
YUKO:名前がカステラぷりんちゃんなんですか?
山下さん:はい、最初はムッシュザラメルにしたんですけど、ちょっとわからなくて皆さんがw それ誰って?なのでわかりやすくカステラぷりんちゃんで。
スタッフ:え?女の子?
山下さん:ヒゲがあるので男です。Twitterでは運営してるのは女の子だと思われてるらしくて。公式アカウントが、カステラぷりんちゃん。
YUKO:それは、SNSとかの最近の流行も考えてネーミングしたんですか?
山下さん:えぇ、もう6年前から未来を見据えてw
YUKO:いつかお菓子のことはやりたいと思っていらっしゃったんですか?
山下さん:商売というか、販売というか、そういうのは嫌いじゃなかったんで、経理とは違うんですけど面白いです。
YUKO:山下さんにとってのお菓子の魅力ってなんですか?
山下さん:難しいんですよ、お菓子って。でも皆さんが美味しいとか言ってくれる言葉、嬉しいですよね。催事とか行って美味しかったけんまた来たとか言ってくれると、それを糧にね。海外とかもそうなんですよ。
YUKO:海外は展開したいと思ってらっしゃったんですか?
山下さん:元々、日持ちがあるのでその可能性はあるなと思っていて、香港とか。もっとやりたいんですよ。
YUKO:今後、カステラぷりんをどうしたいとかありますか?
山下さん:今は別バージョンのショコラとかもあるんですが、長崎でカステラぷりんがお土産として認知度が上がったので、他の場所のお土産に参入してみたいというのもあるんです。何を使ってプリンを作るかとか、それぞれの地元の難しさというのもあるのですが。観光じゃなくても健康とか物とか、海外ともコラボしたりとか、ニーズがどこにあるのか調べながら商品化したいなと思います。
YUKO:ナンコレ九州を見て買う九州以外の30代の女性に刺さるポイントってどこですか?
山下さん:まあコンビニとかで売ってるプリンと比べて高めかもしれませんが、ご褒美プリンとして。それとザラメルで長崎の風景や歴史を感じていただきながら、このプリンに込めた思い、何より僕の思いが詰まってるのでw、それを感じて食べていただきたいなと。
YUKO:本当に長崎ならではの歴史とかもセットにしてお届けできると良いですね。普段の販売はどうされてるんですか?
山下さん:自社の店舗とか、主要なお土産どころ、空港とか駅とか。若干ですが東京のアンテナショップにも。
YUKO:ぜひ、このナンコレ九州での販売を機会にご縁を感じて欲しいですね!
山下さん:いろんな方に繋いでいって欲しいです。ありがとうございます!
長崎名物カステラの次の座を狙う、硬くて可愛いい子
YUKO:山下さん、ありがとうございました。そんな山下さんと井上さんのご関係は?
山下さん:長崎のお菓子業界の中で、すごくいけてるヤツがいるよ、豪腕で切れ味鋭いのが、って紹介していただいてw たまたま同級生でw
YUKO:同業者で同い年っていうのは、やっぱり仲間という意識が出ますよね。山下さんは販売がメインで、井上さんは製造から。
井上さん:僕は自分で作ったものを自分で売るというのが基本にあるので。
井上忠彦さんプロフィール
1975年5月8日 長崎県長崎市生まれ。幼い頃から両親の背中を見、手伝いながら、地元の長崎大学を卒業後、家業に入る。2008年に先代の他界により代表となる。
YUKO:山下さんとはまた違ったストーリーがあると思うのでぜひお聞かせください。生まれは長崎ですか?
井上さん:長崎で生まれて長崎で育ちました。僕は西浦上の方なので小学校の頃、周りはカトリックの人たちがいっぱいおって。日曜日とかに遊びに行ったら今日はお稽古に行っとるっていつも言われて。ミサなんですけどねw
YUKO:学校もずっと長崎で?
井上さん:はい、小中高大と長崎にず〜っとおって。その後、色々行こうと考えてたんですけど。先ほどの「まえだ」さんの話を聞いて似てるところがあって。うちも創業者から三代目まではバリバリの中華菓子、華僑の方がやられてて。まえださんは外からの四代目、萬順はうちの親父がやはり外からで四代目、僕が五代目になるんですけど。
YUKO:萬順さんは創業明治17年、まえださんは創業明治30年、すごいですね!
井上さん:明治17年というのはお菓子屋としてなんですね。一番最初は江戸時代からで萬順號(まんじゅんごう)という貿易船があって、砂糖とか粉をやってて。それで明治になってお菓子屋を。当時は、ほっといてもお金が入る状態だったらしいんです。
YUKO:船の名前から萬順なんですね。
井上さん:今も中華街の唐人屋敷にある福建会館の中に、孫文が長崎に来たとき撮った集合写真があるのですが、その中に萬順號なんとかっていうのがいます。多分、うちの二代目の時代じゃないかと。
井上さん:戦前からこのよりよりを作ってるところは他には無いんですね。でも三代目の頃にその船が沈んじゃって大変になって。元々新地中華街の方でやってたんですけど、そこからはっきり言って逃げるように寺町の方に引っ込んで、それでもどうにかこうにかやってたんですが難しかった。うちの父が当時、長崎で小売店で働いていたんですけど、いつか商売がしたいなと思ってる中で萬順の話が来たんです。すごい老舗なのでやり方次第だな、良いものを作ればやっていけるんじゃないかと。やってくうちに大変なこともあったんですけど、僕が大学卒業したぐらいにゼロベースになってスタートラインにもう一度立ったんです。卒業後色々考えましたが、僕もやり方次第だと思い、現在に至ってます。
YUKO:お父さんは最初からお菓子作りができたわけではないんですよね?
井上さん:そうなんです、素人だからこそとらわれずに。一番苦しい頃はカステラ焼いたりとかしたこともありますけど、それでも僕はもう原点回帰だと思ってて、だからこそ元祖よりよりというのを打ち出そうと。よりよりっていうのを名付けたと言われるのが、うちの三代目なんで、そしたらもう間違いないだろうと。
スタッフ:長崎の人、誰に聞いてもよりよりってみんな知ってますよね。
井上さん:それはね、うちは商標も何も取らなかったんですよ。例えば他のところが、萬順がよりより取ったからねじねじでいこうとなって、みんながねじねじになって有名になったら、それじゃあなんかねと思って。よりよりっていう方が響きもいいし。最終的によりよりが名物になったときに、手にとってもらえる商品を作っているか、それを作ってる会社がどんなブランドなのか、そのブランドを高めていくことができれば、それが一番いいと。それが僕の代でする仕事かなと思って。長崎名物のカステラの次に来るのはよりよりになって、よりよりやったら萬順さんのがいいよねって言われるような店作りをしていきたいんです。
萬順さんの最近リニューアルされたHP
スタッフ:なんだか明太子の物語にも通じるものがありますね。
YUKO:よりより以外にはどんな商品があるんですか?
井上さん:今もやってるのでいえば、月餅、金銭餅、よりより、これが原点です。
YUKO:中国のお菓子として有名ですよね。よりよりも中国のお菓子なんですか?
井上さん:そうです。中華街にいた頃は金銭餅に力を入れてて、よりよりは駄菓子的なイメージだったんです。月餅も高級なお菓子で、月餅と金銭餅がメインだったんですけど、よりよりが一番素朴で一番親しみやすいお菓子なんで、結局よりよりが手に取られるようになって。形といい歯ごたえといいあまりに個性が強い。
YUKO:う〜ん、あの固さはインパクトが強いw
井上さん:だから覚えられやすくて。
YUKO:いつぐらいから、よりよりをメインにしていく舵を切られたんですか?
井上さん:うちの上の工場なんかは、裏通りみたいなところにひっそりとあって何も書いてない。萬順と上の方に看板はあるんですけど何かよくわかんない。なので長のれんをバンッとよりよりってつけたのは、僕が入った20年くらい前ですかね。
YUKO:そこからブランド力を高めていかれて。
井上さん:そうですね、よりよりっていうのはある程度知られてるので、他のところが土産物屋とかを抑えて来たときに、そこの隙をどうにかして作らんといかんと思って作ったのが、今回の「ちより」です。
スタッフ:あのサイズにしようと思ったきっかけみたいのはあるんですか?
井上さん:きっかけはですね、よくお客さんから、やめられないとまらないと。どっかで聞いたことがあるフレーズなんですがw
スタッフ:かっぱナンチャラですねw
井上さん:なので、そのサイズにならって、もうちょっと食べたいなと思うサイズ感にして、形はよりよりの形と味にして。
YUKO:他との差別化にもなりますよね。
井上さん:「ちより」は商標とっちゃいましたw
YUKO:ネーミングはどのように考えたんですか?
井上さん:名前はですね、うちが男の子二人なんですよ。女の子欲しいってうちのかみさんが言ってて。せめて新しい商品は女の子のような名前にしようかってw それが頭に一つあって、簡単な名前がいいなと。
井上さん:小さなよりよりということで、「こより」「ちびより」「ミニより」「ちより」って出たんですけど、ちびはちょっと蔑んだイメージがあって、ミニは英語なんで日本語で行きたいよねと。こよりにしようかと思ったら、すでに商標とられてて。で、ちよりに。
千代に八千代に続くような商品にしたいというのと、小さなよりよりということで。結果として女の子っぽい名前にもなって。YUKO:願いを込められたんですね。パッケージも可愛い!
井上さん:お土産に特化した感じで、長崎の四季をイメージしたデザインにしました。
YUKO:女性が手に取りやすいですね、一口サイズだしパッケージ買いしたくなる。
スタッフ:あのサイズだと自分で色々アレンジしそう。アイスと一緒に食べたりとか。
井上さん:まずはちよりを名物にして、その次にいろんな味の展開を考えてます。
YUKO:井上さん、ありがとうございました。では最後にお二人の今後の野望的なことをお聞きして終わりにしたいと思います。
井上さん:そうですね、学校卒業して店に入るときに目標としたことが、長崎のお菓子といえばカステラってイメージやけど、カステラの他にも何かあるよねって思った時に、カステラを柔らかいお菓子の代表とすれば、硬いお菓子の代表はよりよりだと定着して、よりより買うんやったら萬順さんのが一番美味しかけんあそこんとば買おっかって、人にあげるのもあそこんとばやろっかというのの代表格にできればなりたいなと。もらって嬉しいもの、あげて喜ばれるもの、そこに持って行きたい。
山下さん:そうっすねぇ、やっぱプリンは長崎では少しは知られてきましたけど、もっと全国の皆さんに知ってもらいたいですね。そして海外にも発信して、あのキャラクターが海外旅行に出かけちゃうようなそういう仕掛けもして、海外の人にも食べていただけるように。そのためにはそれぞれの国の好みにあった味を作ったりとか、キャラクターが一人歩きしてそれを発信したりとかしていきたいですね。昔、長崎は貿易で栄えましたが、今度はこっちから出ていってやろうと!
YUKO:お二人でコラボ企画なんかお話しされたことないんですか?
井上さん:(山下さんを指さしながら)利益を取りたがるんでねw
山下さん:一番いいとこごっそりいっちゃうよ!w
スタッフ:職人と営業w
井上さん:いずれね、そういうことが出来れば面白いですね。
YUKO:今回、初のコラボですか?商品の販売としては。
井上さん:そうですね、同じギフトとして出すのは初めてかもしれない。
スタッフ:何かがここから始まるかもしれないですね。
山下さん:もう多分始まってるので。
井上さん:かっこいいこと言ったなw
山下さん:もう未来は決まってる。
井上さん:ヤラシかなぁw
スタッフ:そんな何かが始まる予感のクリスマスイブですね。
※撮影日は12月24日
井上さん:イブばい!
山下さん:今日は結婚記念日。
YUKO:あら、じゃあ月餅買って帰ってあげてw
山下さん:じゃあ月餅にちよりを刺しておしゃれな感じでw
YUKO:寒い中のインタビューありがとうございました!二人のお人柄がよく出てて、商品にもその雰囲気が溢れてる気がしました。
撮影の締めは、稲佐山の夜景を
今回は1日かけて「老舗の挑戦」を求めて、長崎を満喫しました。ぜひここでしか買えない「長崎銘菓ちより&カステラぷりんセット」を食べてみてください。そして皆さんと一緒に行く生産者に会いに行くツアーも企画しています!現地で食べる体験は、皆さんのDNAを刺激するはずです。 そちらのツアー情報も今後アップしていきますね。次回は熊本県。今度はどんな旅になるのでしょうか。
終
撮影日:2020年12月24日
ご協力頂いた皆様
・アイランド長崎(https://www.islandnagasaki.jp)
・出島(https://nagasakidejima.jp)
・長崎コンプラドール(http://www4.cncm.ne.jp/~compradore/)
・株式会社まえだ(http://www.maeda-online.com)
・萬順製菓(https://manjun.co.jp)
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